犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

そちらにも あちらにも立つ 誰でもが

今のオレのスガタカタチをご存知の方は、絶対信じてくれないだろうが、オレは、小学生の頃、いじめられっ子だった。
いじめる側ではないですよ。あくまで。いじめられる側だったのだ。

今でも、そう云う傾向があるのだが、人とつるむのがあまり好きではなかった。お前はお前。オレはオレ。基本、対等に付き合っていくことが当然だ、と思っていたから、グループが出来、その中に、なんとなく序列が出来ることがイヤだった。それも、他人より身体が大きい、腕っ節が強い、そういった、分かり易い上下関係のファクターが、肌に合わなかったのだ。

それから、気持ちが昂ぶる事が、ままあった。良く云えば感受性が強い、悪く云えば落ち着きが無い。気持ちのあるポイントを突かれると、頭に血が昇ってしまい、昂ぶりを抑えられなくなって、泣いてしまったりすることがよくあった。子供が人前で、しかも男の子が、泣いてしまうと云うのは、恥ずかしいことだ。一般的には、そう取られる。「あいつ、ちょっと突いたら泣きよる」 子供の間で、一旦そう思われたら、それが止むことはない。小学校時代、比較的身体が大きいのに(太ってはいなかった。太りだしたのは大学の頃からだ。念のために云っときますが)、よく泣く。そのことは、簡単にいじめの引きがねに結び付いた。

中学に上がり、違う校区の連中が回りに増え、環境が変わったことと、落語研究部(ウチの出身中学には、落研があったのだ。今でもあるかどうかは定かではないが)に入部し、“落語をする道化もの”と云うキャラクターを手に入れたことで、オレはいじめられっ子ではなくなった。他人とつるまない性格と、強すぎる感情の起伏は、あまり変わらなかったが、いじめられると云う状況からは、抜け出すことが出来た。

オレが抜け出すことが出来たのは、巷間耳にする、最近のいじめの実態と、オレが受けていた30数年前のいじめとが、随分違うようであることと、オレ自身の、図太い性格に理由があったように思う。

ただ、それは、今だから冷静に分析出来るだけのことなのかもしれない。偶々乗り越えて、ここに居るから、こんなことをしたり顔で書けるのかもしれない。

いじめが無くなるとは、オレには思えない。人は、2人揃えば何気なくそれぞれを比較するし、3人揃えば多数派と少数派が生まれる。そう云うメンタルの生きものなのだ。
いじめが無くならないのなら、いじめを乗り越える知恵と、それを指し示すコンパスを創らねばならない。そうやって相対化して、生き延びる道を、しかし当事者が見出さなければならないのだが。

全ての人が、強くも、あるいは図太くも、なれないかもしれないのだが。

■小6女児自殺、クラス写真の15人の顔に「×」
(読売新聞 - 11月03日 13:39)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1395054&media_id=20