犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

友人は 「We Can Fly」と 云つてゐた

2週振りに、タイスケを病院に連れて行き診察。見た目は元気なのだが、検査で問題が見つかり、今日の抗がん治療は見送り。来週まで様子を見ることになる。
つまりは、タイスケは余生に入っているのかもしれない。11歳の老犬だから、仕方がないのかもしれないが。

昼前に一旦帰宅。やっぱり、少し気分が沈んでしまう。昼飯を食い、自室で休んでいる間に、うとうとしてしまい、気が付いたら15時を過ぎていた。吹田に行きたくもあったが、タイミングをずらしたことと、お袋が日帰り小旅行に出掛けているので、今日は一日、家に居ることにする。

マッサージチェアに腰掛け、「1Q84」BOOK2を読む。かなり読み進んだ。あと1/4ほど。明日の仕事帰りにでも、BOOK3を買うことにしよう。

来週は、YAKATA週間になりそうな予感。

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学生のとき、友人に、こんなことを云われた。

「お前には才能があると、オレは思う。でも、カリスマ性はないぞ」

こんな風に云われ、その時は憮然としたものだったが。今では、その友人の言葉の真意が、分かるような気がする。

誰にでも愛される人が居る。その人は、特に努力をしている訳ではない。佇まいや、言葉や、人に接する態度が、自然と周りを惹きつけるのだ。その人は、意識せずとも、カリスマ性を滲ませている。
その人が他人に愛されるのは、その人自身が、無私に他人を愛しているからなのだろう。
意識することなく、その人は他人を愛する。それが自然に出来る人が、この世には居るのだ。
友人は、こう云いたかったのだろうと思う。

「お前の行動には、打算がある。愛されたいと云う欲望がある。他人はそれを敏感に感じ取る。オレを愛してくれと声高に叫ぶ人間を、他人は決して愛さない。他人にはそんな余裕はない。自分が知らぬ間に惹きつけられる人を、知らぬ間に愛している。何故オレを愛してくれないのだと、恨みがましく責める人間を愛するほど、他人はヒマではないのだ。お前が他人に愛されたいなら、愛される為の努力が必要だ。打算で生きることのない、無私の自分を創り出す努力だ。お前にそれが出来るか? お前に何よりも必要なことを、お前は理解しているか?」

理解することと、実践することの間には、信じられないほどの距離がある。
オレはその距離を、ジャンプすることが出来るだろうか?
飛び立つことが出来るだろうか?

オレは、まだ間に合うのだろうか?