犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

オフレコで 首切られては 息苦し

作家、小林信彦氏が、1981年に夕刊フジに連載していたコラム「笑学百科」から、一部引用。

<さいきんの漫才は、ホンネが売り物だというが、それは言葉のあやであって、ホンネを吐きつづけることなど、まず、不可能だ。さまざまな弾圧にもめげず、ホンネのジョークを吐きつづけたレニー・ブルースは、麻薬に救いを求めて、中毒者として死んでいった。>

<日本には、悪口芸(変な言葉だが、英語のインサルト・ヒューモアにあたる日本語がないのだから仕方がない)の伝統が、あまり、ないから、演者にとっては抵抗が大変だろうと推察する。>

<いつか、TBSのテレビで、深夜にツービートをみていたら、漫才のあとで、他の漫才師が、
「おまえたちは、年をとった人を侮辱した」
といって、ツービートを突きとばしていた。むろん、台本に、そう指定してあるのだろう。
局側の、こういう見えすいたバランスのとり方、<ワザトラシサ>は、滑稽、かつ、不愉快である。>

なにぶん、20年以上も前に書かれた文章で、しかもポップカルチャーについてのコラムだから、テンスのズレは如何ともし難い。しかし、固有名詞の古さを除いても、ここに書かれた問題意識は、現在にも見事に符合する。毒舌と呼ばれるものを、諸手を挙げて認めてしまう訳ではないが、ベタベタした偽善のヴェールや、臭いものに蓋、長いものに巻かれるだけのメンタルは、不健康だし薄気味悪い。

スケールは違うかもしれないが、北野誠の、ある種小気味いいアングラなトークを、結局ねじ伏せるだけで、この国のポップカルチャーは、悪意をまた隠すだけだ。

そして、小林氏のコラムで、大事なのは最後の一節。

<ぼくの夢は、巨額の金をつんで、小さなクラブで、タモリ、ツービート、紳助・竜介に、徹底した悪口をひろうしてもらうことである。お客は、色川武大筒井康隆、ほか数名。そこで起こったことは、一切、口外しないのがルールである。>

巷間囁かれている、有料イベントでのオフレコトークを、聴衆のひとりがリークしたと云う噂は、眉唾ものだとしても、やっぱりイヤだ。
戦前の特高じゃあるまいし、こんなこと、ルール違反以前の問題じゃないか。

北野誠が生ラジオで涙声謝罪、無期限謹慎に
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=807588&media_id=42