犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

城見にて 嘗て見上げた 白い月

ちょっとした思い出話をひとつ。

この日記でも、何度か書いているが、オレは、大学時代、演劇部に居た芝居者だった。役者から始めて、自分で戯曲を書き演出をし、1989年に大学を辞め偶然にプログラマになってからも、ことある毎に大学に出掛け、後輩たちの芝居の手伝いをしていた。

1992年と云えば、暗黒時代のタイガースに、亀山努新庄剛志が突如として現れ、ノーコン仲田幸司がスライダーを覚えてエースに変身し、横浜からやってきたパチョレックが横浜戦で打ちまくり、左のサイドスローから剛速球を投げ込む田村勤が完璧なリリーバーとして君臨し ヤクルト、讀賣と三つ巴の優勝争いを繰り広げた年だ。打球が甲子園の左翼フェンスのラバー部分に当たり、そこからありえない跳ね返り方をしてスタンドに入ってしまった、八木の幻のサヨナラホームランは、仕事帰りの車の中でラジオ中継で聴いていた。試合は結局、延長15回引き分け。あの試合に勝っていればと、今でも思う。


この年の3月、オレは演劇部OBや他の芝居仲間と、自分の劇団を立ち上げ、枚方公園青少年センター主催のフェスティバルに参加という形で旗揚げ公演を行った。「未だ見ぬ演劇、エンターテインメントの輝ける地平を目指しての飽くなき疾走!」と、26歳のオレはカーテンコールでぶち上げ、どこまでも行くつもりだった。

現役の後輩達はこの年の夏、大阪城公園の太陽の広場に、テント劇場を建てて芝居を打った。テント芝居は、小劇場に関わったことのあるものなら、一度は憧れる異空間である。オレは当時、京都・伏見にある某酒造メーカーのシステム開発の仕事に携わっていたが、後輩連中のテント芝居の報を聞き、なんとも羨ましかったものだ。
金曜の夜、仕事を終えて、京阪中書島駅から急行に乗って京橋まで。ダイエーからOBPに繋がる連絡通路を渡り、大阪城公園に向かう。外周の森を抜けて太陽の広場に入っていくと、そこに銀色のテントが威容を湛えていた。
大阪市大の演劇部を母体にした、浪花グランドロマンと云う劇団から借りた資材で、これはどういう伝で借りられたのだろう。公演後、しばらくしてから、向こうのスタッフから「資材を返してもらえないか」と云う連絡が、枚方公園青少年センターのスタッフを通してオレの元に入り、オレが慌てて後輩に連絡すると、「イヤ、資材を運ぶ足をなかなか確保出来ないままで。マツヨシさんには迷惑かけられませんし(当時、オレはタウンエースに乗っていて、後輩の公演の度に車を出して資材の搬入出を手伝っていた)」と言い訳しやがるから、「バカヤロウ、オレは直接の先輩なんだからいくらでも迷惑かけろ。下らん気の回しで、テント貸してくれた劇団さんに迷惑かけるようなマネをするな!」と一喝する、と云うようなことがあったっけ。

テントの中で、後輩達は舞台の設営に余念がなかった。半間×一間(90cm×180cm、一畳程度)の平台を並べ、舞台奥に真っ黒に塗ったコンデンサパネルを立てかけ(これは、直前にオレたちの劇団の旗揚げ公演を打ったとき、主演女優の母親がパート事務をしていた資材会社から20枚タダで譲り受けた使い古しを、後輩に提供したものだ)、袖に幕を張り、テントを組み上げた鉄パイプに照明器具を吊り下げて配線していく。舞台正面、客席の後ろ側に設置した音響・照明のオペレーションブースに配線のケーブルが届かないと、今回の舞台の作・演出を務めたナカガワが顔面蒼白になって居る。ストレートのケーブルは、確かに数が足りないようだが、二股ケーブルがいくらか余っているから、当面それを繋いでしのいだらいいだろうとアドバイスをすると、ナカガワは一瞬きょとんとして、「あ、そうか。そうですね!」と慌てて二股ケーブルをかき集め始めた。テント芝居と云うことで、ヘンに興奮してしまっていて、簡単なことに眼が向かなくなって居るようだ。

スーツ姿で革靴を履いていては、鉄パイプをよじ登って照明を吊ったりと云うような手伝いもなかなか出来ない。上手側の観客席からテントを捲って外へ出てみる。太陽の広場のグラウンドが目の前に開け、森の向こうにライトアップされた大阪城天守閣が浮かんでいる。その上には、黒い夜空に真っ白く浮かんだ、書割のように貼り付いた満月。
How High The Moon! 仕事々々と追われる日常から、テント一枚隔てるだけで、まるでタイムスリップして幻想の世界に迷い込んだのかと、眩暈がするようだった。

月の光は、やはり心を騒がせる。幻のような光景から踵を返して、再びテントの中に戻っても、作業中の後輩達はひりひりとした緊張の中に居て、トランスしたような空気が満ちており、オレはそこにも戻れる訳でもなく、交叉する鉄パイプのくすんだ色と、そこから吊り下がっているキノコのような照明器具の黒い影を、ぼんやりと見ていた。

2日後の日曜にワンステージだけ上演されたその芝居は、開演直前になってバケツをひっくり返したような豪雨に見舞われ、桟敷席は浸水で水びたし。お世辞にも成功とは云えないものではあったが、見切り発車でもテント芝居をぶち上げた後輩達に、オレは少し嫉妬していた。ようし見ていろ、オレはオレなりの方法で、お前らよりも面白い芝居を創ってみせるからな。

26歳のオレは、根拠のない自信と、押し潰されそうな不安と、しかし懲りない好奇心、無限に広がる想像力は、人並み以上に抱えていたのだ。

今から17年も前の、まだまだ血の気も山っ気も満々だった頃の思い出である。