犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

ドラマ版 やはり 縮小再生産

日曜の話だが、TBS系でドラマ「猟奇的な彼女」が始まった。

何を隠そうこのオレは、韓国映画猟奇的な彼女」の大ファンなのである。
イヤ、ファンどころの騒ぎではない。「猟奇的な彼女」は、オレの極私的ベストテンのうちの一本でもあるのだ。

参考までに、去年の10/9の日記「ネタがないので 映画でも 語らうか」

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=586787397&owner_id=554922

ハリウッドもリメイク権を買ったと云うこの映画、なんと日本でドラマ化だと云う。果たして1クール、3ヶ月という長尺で、どんな風に描かれていくのか。
ものすげく不安な気持ちもあったのだが、やはり第1回は観ておくべきだろうと思って、日曜21時、レッスン終わりで帰宅し、風呂を済ませてから観た。

映画のキョヌにあたるのが草磲剛。“彼女”は田中麗奈である。田中麗奈ねェ。悪くはないんだけどね。一昨年公開された乙一原作「暗いところで待ち合わせ」では盲目の少女を見事に演じていたが、彼女の本質は、その見た目からも窺い知れる過剰さだ。今流れている「SOYJOY」のCMもそうだし、「容疑者 室井慎次」の新米弁護士役も過剰だった。その過剰な彼女が、「暗いところで待ち合わせ」では静かな深みを見せて、なかなかテレビドラマに出ずに、映画中心で活動してきて、その値打ちが出てきたなぁと思っていたら、「猟奇的な彼女」の“彼女”だ。役名まである。高見凛子。うーん、微妙。3ヶ月続くドラマとなると、様々エピソードも盛り込まなきゃならないだろうし、“彼女”で押し通すわけにもいかないだろうが、これが一番の弱点だ。

映画「猟奇的な彼女」は、一見清楚なチョン・ジヒョンが暴力的に振る舞い、しかも彼女は“彼女”なのである。この、名前を持っていないというファクターが、物語をファンタジーにしてしまい、同時にどこにでもいる女の子という普遍のキャラクター性を持たせたのだ。だから観客は、“彼女”とキョヌの幸せを、心から願えたのである。
1回こっきりのスペシャルドラマならともかく、3ヶ月続く連続ドラマで、このファンタジーと普遍性を両立させるのは至難の業だ。ともかくドラマ制作陣は、ここまで分析したかどうかはともかく、ありがちな恋愛ドラマとしてスタートを切らざるを得なかった。そんな訳で、正直云って、第1回は感心しなかった。来週からは、時間があれば観るだろうが、HDDに録ってまで観ることはしないだろうなぁ。

さて、こうなると悪いクセで、映画「猟奇的な彼女」を改めて観たくなってしまうのだが、ここは我慢。まだ週初めだし、じきにゴールデンウィークなんだから、それからゆっくり観ればいい。

光市の母子殺害 元少年に死刑
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=467715&media_id=2

件の裁判で、死刑判決が出た。
やはり、気が滅入る。

オレは、この日記でも再三触れている通り、消極的ながら死刑制度存続派だ。個人の復讐が認められない社会において、国家が代行することに、違和感は拭えないが、遺族の感情を慮る以上、止むを得ないと考えている。

この事件もそうだ。死刑しかないと思ってきた。
「死刑が妥当」と云う言い方は絶対にしたくないが、死刑しかないと思う。

その考えの上で、死刑しかない現行刑法には、強く意義を唱えたい。

死刑と有期刑との間に、開きがありすぎるのではないか? 終身刑や、有期であっても量刑を無制限に積み上げて、実質的な終身刑とするような制度が、やはり必要なのではないか?

以前、この日記にも書いたが、「お前を死刑にはしない。しかし、お前が生き続ける限り、社会復帰はさせない」と云う立場は、あって然るべしだと思う。

あって然るべし、と考えた上で。
二度とこの社会にコミット出来ない場に追い込まれて、彼は何を考えるか?
二度とこの社会にコミット出来ない場が存在すると云うファクターが、この社会自身にどんな影響を与えるのか?

そこからもう一度、オレはこの社会の仕組みについて考えてみたいし、多くの人に考えてもらいたいと思っているのだが・・・。