犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

四十年 住めども知らぬ こともあり

普段、あまり観ないのだが、朝日放送の「ごきげんブランニュ」と云う番組をたまたま点けていると、「高槻のB級グルメ うどんギョーザ」を紹介していた。

うどんギョーザ? 聞いたことないぞ。
しかも高槻のB級グルメって。オレは1969年4月から高槻市民だが、見たことも聞いたことも、食ったこともない。ホントにそんなもの、あるのか?

で、ググッてみたら、こんなページがあった。

http://www.aianet.ne.jp/~akt/shop/obanzaikakoi.html

「当店オリジナルで好評のうどんギョーザ御用意しております。」

うーん、やはり怪しい。この店発信で、無理から情報を流しているに過ぎない気がする。

しかし、ちょっと興味はあるなぁ。こんど作ってみようかしらん。

大島渚監督作品「絞死刑」は、1958年に起こった小松川事件を題材に、死刑制度存廃問題、在日朝鮮人問題、格差問題(映画公開時の1968年に「格差」と云う言葉で社会問題を語る視点は無かったが)等を描いた作品である。こう連々と書くと実に重厚なカタい映画だと思われそうだが、「死刑を執行したにも関わらず、死刑囚が死なずに生きている」と云う不条理な設定の下、右往左往する拘置所の職員たちと、どこまでもイノセントな死刑囚を対比したこの映画は、全編、黒い笑いに満ちている。

この映画で先ず鑑賞者の目を引くのは、冒頭から描かれる死刑執行の場面である。綿密に取材した上で再構成されたであろう死刑執行の一連の手続きは、勿論これまで眼にしたこともないし、おそらくはこれからも眼にすることはないはずの鑑賞者に「実にリアルだ」と思わせてしまう。もう既に、このこと自体が黒い笑いを帯びている。実にオモシロく、実にコワい映画である。

こんなことは、映画の中だけの出来事のはずだと思っていた。1989年のルーマニア政変も、どこか現実感が薄かった。あれは間違いなく現実に起こった事件だが、ニコラエ・チャウシェスクの銃殺シーンがニウスに流れても、その生々しさが次の瞬間には忘れ去られていく。

「どこかの国で戦さが起きたとTVのNEWSが言う
 子供が実写フィルムを見て歓声をあげてる
 皆他人(ひと)事みたいな顔で人が死ぬ場面を見てる
 怖いねと振り返れば番組はもう笑いに変わってた」

さだまさし「前夜(桃花鳥) (ニッポニア・ニッポン)」より)

この歌は1982年に発表されている。何にせよ、この国はこう云う気分でこれまでを過ごして来たのだ。


55分間の「死刑の瞬間」放送へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=461897&media_id=2


このニウスを見て最初に頭に浮かんだのは、映画「絞死刑」だった。あそこに描かれていたのは、リアルに感じられても“偽の死刑執行”である。オレたちは、1枚フィルターの掛かった状態で、死刑の現実「のようなもの」に触れるに過ぎない。勿論、それこそが劇映画の武器なのであるが。

しかし、5月6日に放送されるのは、実際の死刑執行の際に録られたテープだと云う。「のようなもの」ではない。現実に行われた死刑「そのもの」である。
オレの中には、「聴いてみたい」と云う欲求と「流していいのか」と云うもどかしい思いが交錯している。

ここまでネットが普及した現代ならば、放送内容を実況するスレッドが、リアルタイムで2ちゃんねるに立つだろうし、You Tubeやニコ動には音声がアップされるだろう。
それは、「のようなもの」でない「そのもの」に触れたショックから突き動かされるものかもしれないし、ただ単なる興味、無感動な傍観に終始するものかもしれない。

文化放送は「市民が量刑を決める裁判員制度のスタートを来年5月に控え、死刑の実態を知ってほしい」と云っているらしいが、死刑制度や裁判員制度について考える機会とすべきよりも先ず、報道倫理やネット倫理の問題として捉えるべきではないか、と云う思いが強くある。

実はその問題の方が、日本の社会を蝕んでいると思うのだが、果たして?