犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

好きなれど 弱いこの身が うらめしい

夕方、次の業務案件の担当者さんとの、最終面談に出掛けてきた。
オレの経歴書は、既に相手方の手元に渡っている。スキル的には問題ない、と思う。
簡単に、これまでの業務経験についての質疑応答があり、相手の感触もよさげな感じ。このままGOサインを出してくれれば、1月からの業務開始となる。今週末に回答が出るだろう。

で、その面談の中で、相手方のマネージャーさんが、「これは余談ですが、こちらの方はどうですか?」と、杯を傾けるジェスチャーをした。
オレは苦笑して、「弱いです。好きではあるんですが」と答えた。こういう話題を出してくれる、と云うことは、好印象を持ってくれているのかな。

しかし、酒はなぁ。オレは、見た目がゴツいので、酒もかなりいけるクチだろう、と思われることが多い。
色んなところで云っているが、オレは、酒は嫌いじゃない。しかし弱いのである。
セッションの打ち上げなんかでも、他の参加者が「とりあえずビール」と注文する中、オレは「芋焼酎をロックで」と云う。「いきなりですかー!?」と云われるが、これも酒に弱いからこその選択肢なのだ。

焼酎を飲むのは、量が過ぎても悪酔いをすることが少ないからだし、乾杯のビールではなく、最初から焼酎にするのは、チャンポンをしないようにするためだ。
ロックで飲むのは、焼酎そのものの香りを楽しむためでもあるが、原酒に近い状態でちびちび飲むことで、量を抑えてもいるのだ。水割りやお湯割りにすると、ぐいぐい飲んで、酒量が増えてしまう。

とにかく、学生の頃から、数々の粗相をしてきた。一番の武勇伝は、大学時代、短期語学研修で、北京に20日間滞在したときのこと。

その最後のレセプションで、講師の先生(中国人)に勧められるまま、ワイン、ビールをあおり続けた。
終了後、名古屋の大学から来ていた女の子の部屋で、何人かの研修生たちと飲みなおしていると、第一波が襲ってきた。
平静を装い「ちょっと胃腸薬もらってくる」と、長い廊下の端にある女の子の部屋を出て、廊下の真ん中あたりにある先輩の部屋に行き、「胃腸薬、くれませんか?」と頼んだ。
先輩は「わかった。やるから、その前にこれを飲め」と、コップになみなみと注がれたビールを差し出した。仕方なく、一口つけたところで、第二波が襲ってきた。

「ダメです! 限界です!」と懇願し、ようやく薬をもらい、それを飲んで、女の子の部屋に戻ったのだが、ほどなくして第三波が襲ってきた。これはもう、危険水域である。
「トイレいってくる!」と部屋を飛び出したのだが、長い廊下の端にある女の子の部屋から遠く、もう一方の端にトイレはあった。全速力で走った廊下のちょうど真ん中あたり、胃腸薬をもらった先輩の部屋の前が限界であった。

真夏の研修で、空調のない学生寮のこと、各部屋の利用者たちは、ドアを開け放って、少しでも風通しをよくしようとしていた。件の先輩も例外ではなかった。その先輩の見ている前で、惨劇が起こったのだ。

翌日、その先輩は、「お前は、オレの方を向き、にっこり笑って、ピースサインを出した。そのあと吐いたんだ」と云いましたとさ。

自慢できる話ぢゃねーなぁ。と云う訳で、人は見かけによらないのである。酒が弱いのは親父の血。酒が好きなのはお袋の血だ。因果な話だ、全く。

親父が死にました。

今朝、普通に起きだして来て、「おはよう」と言葉を交わしたのに。

冗談のような話ですが、昼飯で食った餅を、のどにつまらせました。

お袋から連絡を受け、駆けつける途中、「こんなにあっけないもんか?」と、独り言が漏れました。

途端に、気持ちが切れました。

声を出して、泣きました。涙が止まりませんでした。

病院に着き、親父を見ました。眠っているようでした。

妹と義弟も来てくれて、話をしている途中、また、気持ちが昂ぶりました。

悔しくて悔しくて、たまりませんでした。

来年の夏に生まれる、妹夫婦の子供。孫を見せてやりたかったのに。

それからは、哀しんでいる暇もなく、色々な手続きに追われました。

死亡診断書を受け取り、市営葬儀の手続きをし、寺の手配をし、親父の口座の残額をおろし(口座を止められてしまうからです)、病院から帰って来た親父の遺体を受け取って、寺の和尚を迎えて枕経を読んでもらい、市役所に行って死亡届を出し、これから以降のスケジュールの打ち合わせをやって、今、ようやく落ち着いています。

この日記を書いているのも、書くことで、少しでも気持ちが落ち着くからです。
申し訳ありません。

明日の夜が通夜。明後日、身内のものだけで葬儀です。

気持ちは落ち着いてきています。
オレは大丈夫です。