犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

「お寺さん」 再録

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=103958&media_id=2

このニウスを聞いて、色々と考えた。
まず、2年前に、ブログ「犬と暮らす人」に載せた拙文を、再録したいと思う

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2004/11/26 (Fri) 「お寺さん」

イラクでの出来事や、大統領選での福音派の活動を見るにつけ、こればっかりはどうしようもないのかなぁ、と、寂しい気持ちになってしまう。

日本人は、多くが、宗教に寄りかかるようにして生きてはいない。クリスマスを楽しんだ1週間後に、神社に初詣に行く民族だもの。元々が、八百萬の神々が住まう国だから、他国の宗教も、寛容に受け入れる。仏教からして、他国の宗教な訳だし、よく云えば寛容、悪く云えば無節操ということだろうか。原理主義の方々からしたら、とんでもない民族なのかもしれない。

誤解を恐れずに云うなら、オレは、宗教ってのは、日常の隣に、風景としてあってくれれば、それでいいと思っている。近所に寺があって、そこに墓を建てている。うちは檀家なわけだが、両親は、祖父母の月命日の度に、花を供えに、「お寺さん」へ行く。母が口にする、「お寺さん」という呼び方は、京都弁の言い回しになるのだろうか。いかにも日本的な、檀家と寺の微妙な距離を示す云い方だと思う。法事になるとやってくる、その「お寺さん」の和尚の法話は、穏やかなものだ。「あなたの生活を損なうほどのことをすることはない。出来る範囲で、ご先祖を供養されればよろしい」和尚はそう云って、穏やかに佇んでいらっしゃる。オレたちは安心して、自分の生活に向いていられる。

「お寺さん」があることを、折に触れて思い出し、先祖と共にあることに静かに思い至る。そういう日本人の生活は、悪いものではないのではないか。聖戦や邪教という言葉で、他者を激烈に攻撃してきた、ユダヤイスラムの人々に、少し立ち止まって、考えてもらいたいものだ。

憎みあうことは悲しい。理解することは難しい。しかし、何はなくとも、とりあえず認めることから始めれば、どうにかなるのではないか。やはりあいまいな日本人の、青臭い理想だろうか。

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今回の事故は、丁度、ラマダンの時期で、運転手が日中、断食をしていたことも、原因の一端ではないか、と云われている。
だとしたら痛ましい話だ。敬虔な教徒が、戒律に従い、体調が整わぬまま仕事に向かい、事故が起こった。
多くの人が傷付き、命を落とした方もいた。
宗教の側が、社会の変化を捉えて、もっと柔軟に変化出来なかったのか。
むしろ、そうあるべきではないのか。

世界は広がり、異文化に生きる人々が、複雑に関わり合って、社会が動いている。
オレは、人間と文化を、等価には捉えていない。厳密に分化することは難しいが、先ず人間があって、文化はそこに付随していくものだと思う。
そして、宗教は、文化の領域のものだ。人間の存在があって、初めて成立するものだ。
誤解を恐れずに云う。宗教は、人間を規定するものではない。人間から生み出されたものだ。
先ず、人間ありきなのだ。

あなたの隣にいる誰かが、あなたの神とは違う、異教を信じている。
それは当然のことだ。あなたの神と、隣人の神は、初めから違うものなのだ。
何故なら、それは、あなた自身と、隣人自身なのだから。
異教の指導者それぞれが、お互いに、そう感じ、そう導いてくれないものだろうか、とオレはずっと望んでいるのだが・・・。

こういうオレの考え方は、悪魔の思想なんでしょうかね?