風景が 気付けば 心を支ゑなむ
かつて、日本を大きく騒がせた、某カルト教団の末端に居たある信者が、その教団に入信した理由について、こんな風な意味合いのことを語っていた。
「日本では、宗教は風景でしかない。宗教は、もっと、人間の心を根っこから支えるものであるべきだ」
オレは、これを聞いて、云い得て妙だと思った。勿論、彼の言葉の、前段である。
「宗教は風景」
これは、日本人と宗教の関係について語られた、最も的確な表現ではないか。
そして、彼のように、そのことに苛立ちはしなかった。これこそが、人間と宗教の、究極の理想系ではないか、とオレは思っているのだ。
歩いて10分、車で5分のところに、菩提寺があり、墓もある。彼岸、盆の度に、和尚が法事に来て下さる。今週の金曜もあるのだが、オレは仕事なので、お袋に任せることにしている。お袋も、それで全然納得している。
「お寺さん」とお袋は呼ぶ。京訛りで語られる「お寺さん」と云う言葉が、家と寺の、微妙な距離感を、現しているように思う。
法事の度に、和尚は仰る。
「あなたの生活を損なう程に、おつとめをされる必要はありません。普通に生活をされて、出来る範囲で、ご先祖を供養されたらよろしいんです」
フッと顔を上げたところに、寺も、墓も、先祖もある。普段はあなたの生活を全うすればいい。折に触れて、先祖と共にあることに気付けばいい。
何気ない風景が、こちらの気持ちの切り替えで、かけがえの無い心の支えになる。人と宗教は、そう云う、付かず離れずの距離感であればいいのではないか。
件のニウスの牧師に、云いたいことは特に無い。一つだけ。神の仕業と云ってしまうのは、実は楽なことだ。神は責任を取らないから。責任を取らずに済むものに、全ての責任を覆い被せているのだから。
全ての聖職者が、こんな風ではないだろうが、宗教家と卑怯者は、紙一重だ。
「日本大地震は神様の警告」、牧師の発言に叱責殺到=韓国
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