犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

「読まなくて困らない」とは 寂しけれ

学生の頃は、ほとんど、本を読まなかった。演劇部で芝居をしていて、しかも自分で戯曲を書いていて、本を読まないと云うのは、実は致命的なのだが、大学の図書館に篭っては、映画の研究書ばかり選んで読んでいた。キネ旬が出していたムック「世界の映画作家」シリーズは、図版が多く、その映画を観たような気にさせてくれるので、よく読んでいた。

1988年頃、駅前に新たに店舗展開してきた、地元の書店兼レンタルビデオ屋の、開店メンバーとしてバイトに入った。毎日、本に囲まれて仕事をすることになった。そこそこ広い店内を、ハンディモップ片手に、埃をはらったり、立ち読みで放り出された雑誌を棚に戻したり、漫画を万引きされないか監視をしたり。
そうやって店内を回っている内に、本棚に並べられていたり平積みされている中に、気になる本が数冊出てくる。装丁が気に入ったり、タイトルに惹かれたり、色々理由はあるが、ちょっと手にとって、読んでみたくなる。
勿論、仕事中に立ち読みってわけにはいかないから、そのままやり過ごして巡回を続ける。しかし、広いといってもそこそこ、どんなにゆっくり回っても、10分もすれば元居た場所に戻ってくる。気になった本は、相変わらずそこにある。やっぱり手にとってみたくなる。

それを繰り返し、結局、手にとってレジ裏まで持って帰ってくる。取り置きにしておき、後日、店員割引でいくらか安く買うのである。そうやって買い溜めた単行本や文庫が、随分の数になったが、ほとんどが積ん読状態。なかなか読み出さず、長い間放置したままになっていた。

社会人になり、通勤を始めると、行き帰りの電車の中で、ひまつぶしに、そうやって溜めた積ん読を読み始めた。装丁が気に入って買った、講談社文芸文庫大江健三郎万延元年のフットボール」なんか、読み難かった(文章が独自の論理性を持っていて、なかなか入ってこないのだ)が、その激烈なパワーに魅了され、いっとき、新潮文庫に入っている大江の初期の作品は、狂ったように読んだ。「死者の奢り」「見るまえに跳べ」「われらの時代」「遅れてきた青年」「セヴンティーン」「性的人間」「日常生活の冒険」「空の怪物アグイー」「個人的な体験」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」「洪水はわが魂に及び」「ピンチランナー調書」「同時代ゲーム」「『雨の木』を聴く女たち」・・・
新潮文庫の他にも、「叫び声」「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「いかに木を殺すか」「河馬に噛まれる」「懐かしい年への手紙」「キルプの軍団」と云った作品も、次々読んだ。息せき切るような感じで嵌り続け、数年後に狐が落ちた。

とは云え、この、大江を狂ったようにむさぼり読んだことが、その後の活字好きに繋がったように思う。手元に、何がしかの活字が無ければ、間が持たない感じは、大江読みで培ったもののような気がする。
今、日常で一番読んでいるのは、大学の頃に出逢った「世界の喜劇人」「日本の喜劇人」ですっかりファンになった、小林信彦で、彼の小説も、ブックオフに行っては手に入れて読んでいる(売れないのか、絶版が多いのだ)。文体で云えば、一番、影響を受けているかもしれない。

先日、村上春樹1Q84」を読了したが、通勤時間をたっぷり読むことに充てられたので、駆け抜けるように読み終えられた。少し勿体無い気もする。

件の記事で、読まなかった理由の内、「時間がなかった」46%は、まあ理解できる。
「読みたい本がなかった」21%や「本を読まなくても困らない」16%と云うのは、読む習慣だけの問題のような気もする。きっかけさえあれば、本を読むと云う行為は、自然に拡がっていくものだ。
しかし「本を読まなくても困らない」は、寂しいなぁ。個人的には、読まないと困ることに後々なるぞ、と思うのだが。
読まなくても困らない本ばかり出ている、ってことなのかもしれない。

■「1か月本読まず」52%…読売調査
(読売新聞 - 10月24日 01:25)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1383593&media_id=20

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今日は一日、家に居た。少し疲れが残っていたこともある。夕方、雨が降ったので、出なくて正解だったかもしれない。京橋には行きたかったんですがね。