犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

甥つ子の名は 読めなくは無けれども

まもなく1歳の誕生日を迎える、我が甥っ子の名前は「那由他(ナユタ)」である。読み難い名前とは思わないが、意味が分からないと云う人は多いだろう。
那由他」は数の単位。元々は仏教用語だ。10の2乗は100、10の3乗は1000、10の4乗は10000。1那由他は、10の60乗になる。ゼロが60個付く。
1000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000である。

妹夫婦が、「那由他」と名付けたと聞いたとき、素直に、いい名前だと思った。スケールの大きい、男の子らしい名前だ。

取り上げたコラムを読んで、気になったのは、「凝った名前を付ける親は児童虐待しやすい」と云う説が触れられていることだ。

「西沢助教授は、セラピストとしての豊富な実務経験を基に講演した。その中で、西沢助教授は『凝った名前には、子どもを支配したいという気持ちが出ている』と指摘し、子育てがうまくいかないと、怒りが子どもに向けられがちな背景を説明。さらに『凝った名前に横やりを入れる人が周囲におらず、虐待のストッパー(歯止め役)がいないことの現れ』などと実例を交えながら説明した。」

どこまで調査し、統計を取った上での発言かは分からないので、全面的に賛同するつもりはない。ただ、ひとつだけ感じたのは、“家”の意識の希薄さではないか、と云うことだ。

オレの住む街は、40年前に開発された、当時の新興住宅地だ。近所には、同世代の子供たちも多く住んでいて、小学校、中学校のクラスも増えていく傾向にあった。子ども会と云った活動も盛んで、小さいながらも商店街もあり、活気に溢れていたものだ。

それから40年。オレの同世代の少年少女は、成人して社会に出て行き、家庭を持ち、殆ど街を離れている。残っているのは、40年前に若い夫婦として新興住宅地にやってきた老人達である。今更ながら、核家族と云う言葉をはっきり実感してしまう。
そして、新しいマンションが建ち、分譲住宅が造成され、そこに入居するのは幼い子供を連れた若い夫婦。その子供たちも、数十年すれば成人し、街を出て自分たちの生活を始め、親は年老いて残されていくのだろう。その繰り返しが目に見えるようだ。

祖父母から両親、兄弟、従兄弟、息子、孫と、連綿と続いていく“家”の感覚は、相当希薄になっているのではないか。自分を表す拠り代としての“家”を実感できないから、個人の存在に拘るのではないか。奇矯に思える読めない名前は、その拘りの表れなんじゃないだろうか。

とまれ、先ずは即物的に、沙風(さあふぁ)爺さん、樹里亜菜(じゅりあな)婆さんと云うのは、やっぱり困るだろうし、子供が思春期になって、説教するときに、「おい、和源(わーげん)!」とか「こら絆(はあと)!」ぢゃ、殆どギャグだわなぁ。

ネーミングで、とりかえしのつかない一歩を踏み出さないために
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=818313&media_id=40