犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

落語とは 意味を伝へる だけぢやない

「手話気が散る」落語家が謝罪
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=328519&media_id=2

オレは、中学生のとき、落語研究部に所属していた。ウチの中学には、落研があったのだ。変わってるでしょ。
オレの落語の原体験と云うのは、それ以前に遡る。
お袋の実家が、京都で仕出し料理屋を営んでおり、よく遊びに行った。
行く度に、オレは、店に住み込んでいた料理人のアキちゃんの部屋に入れてもらい、落語のレコードを聴いていた。
アキちゃんは、桂米朝師匠のファンであり、全18巻に及ぶ米朝落語全集というLPレコードを持っていたのだ。

米朝師匠の落語は、オレにとっての情操教育だった。それは、歌を聴くのと、全く同じことだった。繰り返し繰り返しレコードを聴き、オレは落語を、ストーリーよりなにより、米朝師匠のフレーズ、リズムで覚えていった。

落語と云う芸は、ストーリーではないのだ。
東京の下町、日本橋生まれの作家、小林信彦氏は、「名人 志ん生 そして志ん朝」という本の中で、こう述べている。

「ぼくの考えでは、江戸落語とは、まず、きまりきった噺(観客にはオチまでわかっている)を、いかに自己流の江戸弁(下町言葉)、変わった言いまわし、とっぴな表現を用いて語るか、にかかっていると思う。
アクセントやイントネーションが<下町風>であるのは当然として、江戸言葉の面白さを味わわせてくれなければならない。人物描写の妙もけっこうだが、その前に、笑わせてくれなければ困る。」

これは、かなり思い切った表明だが、オレも概ね、こう考えている。
噺家が伝えるのは、言葉の意味ではない。<言葉>そのものなのである。

取り上げたニウスに関しては、夢之助師の態度について、脊髄反応的に批判する意見が多いようだ。
オレも、全面的に、夢之助師を擁護する気はない。そう云ってしまっちゃおしまい、と云う言い方をしているように思う。
(ただし、ネット配信の短いニウスの一節なので、どこまで正確に伝えられているかは、割り引いて考えるべきだ)

しかし、事前の打ち合わせも無く、噺家と同じ高座に、手話通訳が居るというのは、違和感があるように感じる。
少なくとも、高座に上がれてしまう、通訳氏の感覚は、理解出来ない。何か、特権でもあるように思っているのではないか。
主催した市の担当者の見識も含めて、疑って然るべしだろう。

それに、夢之助師の口演を、その言葉の意味を手話通訳して伝える、という行為にも、オレは疑問を感じる。
手話落語なら理解出来る。演者自らが手話を使って演じてみせる、と云うことであれば、演者の言葉が、演者自身の咀嚼によって、手話に置き換えられるのだから、<言葉>そのものを伝えることになる。

しかし、こう云うニウスを見ると、芸と云うものが随分軽く見られているのかなぁ、と思う。
芸事好きとしては、歯痒い風潮なんだがなぁ。