犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

「十九歳の地図」

「十九歳の地図」1979年
監督:柳町光男
出演:本間優二 蟹江敬三 沖山秀子

中上健次の原作は読んだが、正直、そんなに好きではない。
枯木灘」も、文庫は持っているが、積ん読状態だ。

「十九歳の地図」にインスパイアされて、尾崎豊が「十七歳の地図」という曲を作ったのは有名な話。

と云うわけで、今夜の日記は、尾崎豊である。

学生の頃、演劇部で芝居を書いていたが、1987年の学園祭で、核戦争後を舞台にした芝居を演ったことがある(まァ、実に80年代小劇場っぽいテーマだこと)。
この芝居のラストに、当時、発売されたばっかりだった、尾崎豊の「核」という曲をかけた。
12インチシングル(懐かしい)として発売された「核」は、ランタイム13分くらいかかる長い曲だった。これを一曲、まるまるかけて、オレを含めた役者は舞台を走り回り、台詞を叫びまくった。

「核」という曲には、こんな歌詞がある。

 反戦 反核 いったい何が出来るというの
 小さな叫びが 聞こえないこの街で

彼を、盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎窓ガラス壊して回る人、だと思っていたオレは、正直言って、そんなに尾崎を聴いているわけではなかった。
しかし、「核」の歌詞には惹きつけられるものがあった。
声高に主義、運動を叫ぶよりも、自分の生活、個人の関係の方を見つめる。
反戦」や「核廃絶」は、人類の課題のように掲げられているが、無言の理念は、新たな権力になり、個人の感情を押し潰していく。
運動のための運動。「反捕鯨」がいい例である。理念はとうに置き去りになり、日本叩きの道具になっている。
尾崎は、あらゆる組織に異議を唱えていたのだと思う。体制、反体制何れにも。個人を押し流し、無力化していくあらゆる組織に対して。
それは孤独な闘いだったろう。それに刺激を受けて、芝居は形になった。芯が出来たのである。
尾崎になりたいとは思わなかったが、同い年の彼に少なからず共感を持ち始めた。
そして、「核」を発売した数ヵ月後に、尾崎は、覚醒剤不法所持で逮捕されるのである。

帰ってきた尾崎を、オレは、それほど熱心には聴いていない。好もしく見ていても、どっぷり浸かることはなかった。
それは、共感を持ちながら同時に、違和感を感じていたからだ。
尾崎が闘う相手って、ホントにオレたちの敵なのか? 大人は、学校は、社会は、オレたちから自由を奪っているか?
尾崎の立ち位置は、ある甘えではないのか? システムの中でよろしくやって、しかし負けない連中だっているじゃないか。
オレは寧ろ、そういうしたたかさを手に入れたい。そのしたたかささえ、尾崎には許せないというのか?

尾崎について書くのは難しい。オレ自身が、尾崎に、さほど思い入れがないからなのだが、次の思い出だけは、未だに印象が鮮明だ。

1992年4月25日。この日は、大学の同窓、Iの結婚披露宴があり、オレたちは神戸にいた。
久しぶりに顔を合わせた、同窓生や後輩たちと、尾崎の話をした。
この日、尾崎は26歳で死んでしまったからである。速報でそれを知ったオレたちは、無論、新郎新婦の前ではやらなかったが、式を待つロビーで、尾崎について話をしていた。
せざるを得なかったのだ。
オレたちの仲間は、盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎窓ガラス壊して回ったりはしなかったが、どこかで、同世代の(1965年生まれのオレにとっては同い年の)尾崎に触発されていたのだ。
尾崎の訃報を受けて、号泣したりするほど入れ込んではいないが、若干の寂寥を感じる位には、彼を見ていたのである。
尾崎の闘いの結末がこれでは、寂し過ぎるじゃないか。

友人の結婚式、という寿ぎの場で、オレたちは尾崎の死について語り合っていたのである。

尾崎豊の死から15年。
死は、ヒーローをカリスマに押し上げ、CDは未だに売れ続けているという。
システムのなかで泳ぎ、しかも負けないしたたかさ。それを持てない人々が、尾崎の幻想を未だ見ているのかもしれない。