犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

「マリー・アントワネット」で22日

21日の日曜に、ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」を観てきた。
去年から、映画館に行くたびに、パンクをBGMにしたスピーディーな予告編が流れ、「これは」とかなり期待させられていた。

で、本編。やはりパンクに乗せたタイトルバックはなかなか良く、期待が膨らむ。
ところが、物語に入った途端、リズムが損なわれる。もたもたし始めるのだ。

政略結婚の人質として、14歳でフランスにやってきたマリー・アントワネットは、夫である王太子、ルイ・オーギュストの性的不能や、堅苦しく、形式尽くめのヴェルサイユでの生活による鬱屈を、浪費、ギャンブル、不倫といった享楽で紛らわしていく。
徹底的に、マリーの視点で展開していく物語は、盛り上がるぞ、と思うところで萎んでしまう流れを繰り返し、何か、据え膳前にしてお預けを食らっているような気分になる。BGMのパンクにも、いまいちノリきれない。

この映画の最大の弱点は、人物の背景にある歴史について、全く描かれてない点である。
アメリカの独立戦争を支援するくだりや、最大の事件、フランス革命についてが、お義理のように、ほんのわずかに触れられるだけで、あとは全編、王妃の身辺を描くだけ。
仮面舞踏会やギャンブル、日常の浪費、といったファクターが、ただ羅列されるばかりで、例えば、浪費による財政の圧迫、それによる国内政情の不安等々が描かれていないから、画面に、緊張感が無いのである。
王妃の生活の裏に間違いなく存在している歴史は、映画のラストで、唐突に登場する。市民がバスチーユを襲い、ヴェルサイユに押し寄せてくる、という現実を、まったく突然、王妃は突きつけられる訳だが、観客の大半にとって、フランス革命は周知の事実だから、マリーが感じたであろう驚き、当惑、失望を共有できないのである。

「え? 市民が暴動を起こした? 何故?」という感情にならない。
「ほらほら、やっときたよー」と、カタルシスもなく収まってしまうのである。

じりじりとした市民の不満とマリーの世間知らずな惑溺を、はっきり対比して描いたら、画面に緊張感が生まれ、観客はノレる。
定見のないルイ16世は、側近に云われるまま、アメリカに支援を続け、財政は破綻寸前。市民は重税に喘ぎ、怨嗟の声は満ちる。
しかし、マリーは、自分を不幸な女だと信じて疑わない。政略結婚の為に故郷を捨てねばならず、夫は不能で抱いてくれず、おべっかを使い態度をコロコロ変える貴族の婦人連中にうんざりし、湯水のように金を使い、フェルゼンとの不倫を楽しみ、やっと生まれた娘を溺愛し、孤独を癒している。つもりになっている。

そういった市民との感覚の乖離を描いていれば、マリーの遊蕩のシーンに流れるパンクも、一層効果的だったと思うのだが。

演出意図はわかるが計算違い、といった作品でありました。