不惑になって思うこと
先月末に誕生日を迎え、大台、四十歳となった。
「四十にして惑わず」というのは、論語の言葉だが、不惑どころか、迷走しまくっている。
独身というのもあるのだろう、四十という歳の感覚が、いまいち掴めない。小林信彦氏の「テレビの黄金時代」というクロニクルを読むと、1965年、日本テレビの「九ちゃん!」というバラエティ番組を作っていたとき、出演者の坂本九が二十三歳、伊東四朗が二十八歳、構成作家の小林氏が三十二歳、プロデューサーの井原高忠氏が三十六歳であったという。この年齢構成をして、小林氏は、「怖いようなものである」と書いているが、確かにそうだろう。世間的にみても、働き盛りというのは四十代だ。三十代半ばは、まだ若造の範疇なのではないか。
そう考えると、四十のオレは、若造とは云えない。いいかげん、「いい大人」然としなければならない。と思う。
などといいながら、春に会社を辞め、フリーランスになったのだから、小林氏に負けず劣らず、怖いもの知らずだ。冷静になって考えてみても、この行動の支離滅裂具合には、我ながら呆れる。
大好きだった漫画、ゆうきまさみの「究極超人あ〜る」に、こんな台詞がある。
「今までだって、なんとかなってきたじゃないですか」
嗚呼、このゆるさ。このいいかげんさ。単位が足りないというのに補習をサボりまくり、卒業式に間に合わなかった、R・田中一郎の名言なのだが、オレの耳元には、常にこの言葉が聞こえている。
クレイジー・キャッツの「だまって俺についてこい」も、甘美な悪魔の囁きだ。
♪金のない奴ぁ俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ 青い空 白い雲
その内なんとかなるだろう♪
ね? 甘美な香りがするでしょ? なんとかなりそうな気がするでしょう。
今までだって、なんとかなってきたんだから、ね?
ひとつ間違えば失業者、という厳しいフリーランスであることには間違いないはずなのだが、なにか、モラトリアムの中にいるようなゆるさもある。
それが身上なのかもしれない。
仕事はまじめに。
人生は楽しく。
行けるところまで、これで行ってみるか。