犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

きっとこれは、特別なことじゃないんだろう

朝から会議。9月スタートのプロジェクトなのだが、サブシステム単位が手前勝手に完結しており、システム間の連携がとれていず、全体のデザインは杜撰。うちのグループのリーダーに、「後戻りするとしたら、どこまで戻るの?」と聞くと、「要件定義までだなー」という。開発工数を再見積もりすると、概算でも730人月になるという。9月どころか、年内いっぱいでもスタートできないぞ、そんな状態じゃ。基本設計者はなにやってたんだ、と思っていると、自社から携帯に入電。2月末で収めた仕事の、確認依頼が来たとのこと。少し遅すぎますよねぇ、と社長と愚痴りあいながら、対応について協議するために、定時後に打ち合わせをもつことにする。
会議は午後も続き、杜撰なシステムデザインがどんどん顕わになっていく。いいかげんイライラしてきた16時ごろ、突然、携帯に入電。家からだった。こんな時間に電話してくるなんて、いままでなかった。嫌な予感がする。出ると、電話口のお袋が、落ち着いた声で伝える。「お父さん、脳梗塞で入院した」 クソ、予感が当たった。「何時ごろ帰れる?」と聞いてきたので、「現場の責任者と会社に相談して、折り返し電話する」と答え、一旦電話を切る。まず、現場の責任者に事情を伝え、早退の許可をもらい、自社に電話。定時後に予定していた協議ですが、こういう事情になったので、これから帰社して、依頼のあった問題点を確認します、と伝える。返す刀で家に電話。お袋と、6時ごろに病院の最寄の駅前広場で待ち合わせることにして、地下鉄に乗る。帰社の途中、ああ、とうとう来るべきものが来たのか、と以外に冷静な頭で感じていた。親父は、今年の7月で78歳になる。現役をリタイアしてからは急に老け込んでしまった。いつ、こういう事態が訪れてもおかしくない。親父がいなくなる。家族がいなくなる。一人暮らしの経験もあるし、妹は嫁いで既に家にはいない。しかし、それとは質の違う、この世からいなくなるという現実を、オレは地下鉄の中で想像していた。
会社に到着。確認依頼のあった問題点は、何れも内容の軽いものばかりだった。少し安心する。こちらの対応で、今の現場の作業に支障が出ては話にならない。スケジュール等の詳しい相談は、後日することにして、目を通しておいてくれと資料をもらい退社。病院へ向かう。
帰りの電車の中では、MDを聴いていた。明るい曲ばかり選ぶ。大好きだったフライングキッズの「幸せであるように」も、そのMDには入っているのだが、とばした。


別れは辛くて でも みんな愛し合うのに
涙が 何で こぼれ落ちるのかな
声を 震わせて

ママも死んで それでもボクは キミとキスを交わしてる
子供も産まれてくれば 懐かしい友のことなど 忘れるかもしれないよ


15年前にこの曲を聴いたとき、いい曲だと思った。今でも、大好きな曲だ。しかし、昨日は聴けなかった。
日々はとどまることなく過ぎていく。人は変わっていく。その流れを、静かに受け止める。受け止めながら、「幸せであるように 心で祈ってる」 そのことだけは変わらずに。変えずに。この曲の、浜崎貴司の、そういう静かな強さが好きだった。
でも、昨日は、そういう強さを受け止めたくなかった。親父がいなくなる現実を、醒めた頭で想像しながら、親父がいなくなる恐怖を、受け止めたくなかった。親父も、お袋も、妹も、タイスケもいるモラトリアムに浸っていたいと思っていた。


急がないでゆっくり この星がまわればいいのに


以前、このブログでも取り上げた、「地球Merry-Go-Round」を、繰り返し聴いていた。
待ち合わせ場所に向かう道で、お袋とばったり出くわした。お袋は、不思議なほど落ち着いていた。親父の脳梗塞は、初期段階で、入院も検査入院だという。電話口でも冷静だったのは、そういうわけだったのか。お袋は、担当医から、2週間くらいで経過をみたい、そのために、平成13年に認可され、いままで当病院で12の投与例がある薬を使って治療したい、一回の投与につき1万円を支払う、投与は2週間で5回程度になる、ついては同意書にご家族の署名捺印を頂けないだろうか、という話をされ、安全ですよと云われて、自分の名前は書いたらしい。その資料と同意書は、一旦家に持ち帰っているというので、帰宅してから内容を確認することにする。
親父の身の回りのものを買い整え、病院へ向かう。6人部屋の奥、窓際のベッドで親父はまどろんでいた。オレが横に座ると気づき、「おお」と云った。「気分はどうや?」と聞くと「あんまり、ようないなぁ」と苦笑した。「2週間ほどで帰宅できるから、まあ辛抱しとき」と云って手を握った。握り返す力は弱いが、温かかった。ろれつは回っていないが、意識ははっきりしている。とりあえず安心した。面会時間ぎりぎりの7時までいて、帰宅する。
帰宅してから、飯を食い、風呂に入っている間に、妹が来ていた。お袋が、担当医からもらってきた資料と同意書を見せて、話をしている。着替えてから話に加わり、資料を見せてもらうと、「臨床試験のお願い」という冊子だった。担当医は、エダラボンという新薬を投与したいらしい。よく読むと、「生命に重大な影響を及ぼす報告がある」と書いてある。おいおい、と思い、ネットで調べてみると、「エダラボン投与の患者、急性腎不全で死亡の報告」という2002年の記事がトップでヒットした。2002年というと平成14年。認可1年後に、投薬した患者が死亡って、そんな薬、使わせてたまるものか。1回投与につき1万円なんてのも、胡散臭い話だ。オレも妹も、同意書への証明捺印はしないことにした。お袋も、「わかった。明日先生にそうはなしする。土曜にあんたも云ってはなしして」と納得した。
ごたごたあった1日だったが、とりあえずは落ち着いた。明日も仕事だ。床に就く。親父は、しばらくは大丈夫だろう。でも、日々は変わっていく。それは現実だ。残酷でもなんでもない、不断の現実だ。なら、それは静かに受け止めるべきことなのだろう。勇気はいるけれども、そういうものなのだろう。来週から始まる怒涛の日々を、受け止める準備を、オレはしなければならない。特別なことではなく、不断の現実を生きるために。
親父、早く家に帰ってこいよ。タイスケも待ってるから。な?