犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

お寺さん

イラクでの出来事や、大統領選での福音派の活動を見るにつけ、こればっかりはどうしようもないのかなぁ、と、寂しい気持ちになってしまう。
日本人は、多くが、宗教に寄りかかるようにして生きてはいない。クリスマスを楽しんだ1週間後に、神社に初詣に行く民族だもの。元々が、八百萬の神々が住まう国だから、他国の宗教も、寛容に受け入れる。仏教からして、他国の宗教な訳だし、よく云えば寛容、悪く云えば無節操ということだろうか。原理主義の方々からしたら、とんでもない民族なのかもしれない。
誤解を恐れずに云うなら、オレは、宗教ってのは、日常の隣に、風景としてあってくれれば、それでいいと思っている。近所に寺があって、そこに墓を建てている。うちは檀家なわけだが、両親は、祖父母の月命日の度に、花を供えに、「お寺さん」へ行く。母が口にする、「お寺さん」という呼び方は、京都弁の言い回しになるのだろうか。いかにも日本的な、檀家と寺の微妙な距離を示す云い方だと思う。法事になるとやってくる、その「お寺さん」の和尚の法話は、穏やかなものだ。「あなたの生活を損なうほどのことをすることはない。出来る範囲で、ご先祖を供養されればよろしい」和尚はそう云って、穏やかに佇んでいらっしゃる。オレたちは安心して、自分の生活に向いていられる。
「お寺さん」があることを、折に触れて思い出し、先祖と共にあることに静かに思い至る。そういう日本人の生活は、悪いものではないのではないか。聖戦や邪教という言葉で、他者を激烈に攻撃してきた、ユダヤイスラムの人々に、少し立ち止まって、考えてもらいたいものだ。
憎みあうことは悲しい。理解することは難しい。しかし、何はなくとも、とりあえず認めることから始めれば、どうにかなるのではないか。やはりあいまいな日本人の、青臭い理想だろうか。