犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

タイトルについて

「犬と暮らす人」というタイトルについて、少し書いてみる。

犬を飼い始めて、5年になる。
税吏だった父親がリタイアし、年金生活に入った。図書館に出かけては、古い映画のビデオを借りてきて、書斎で観ている。最近は、ケーブルTVを導入し、やはり古い時代劇ばかり観ている。現役の頃の趣味だった、謡曲の稽古にもほとんどいかない。お師匠が亡くなって代替わりした所為もあるんだろうが、とにかく、出歩く回数が激減した。途端に、めっきり老け込んでしまう。
学徒出陣して海軍に入り、特攻の訓練を受けたことのある戦中派で、オレにとって、父親は、厳格な、怖い存在だった。
怖いのだが、どこかズレている。家族を愛しているのだろうが、不器用な、愛し方が下手な人なのだ。
小学校の社会科の授業で、「お父さんはどんなお仕事をされているのか、聴いてきなさい」という宿題をもらい、父に質問すると、今思えば税吏なんだから、「税金を集めている」とか「税務署で働いている」とかいえばいいものの、「人のお金を集める仕事だ」としか言わない。仕方がないので、授業でそのように答えると、クラスメートから、「おまえの親父は泥棒だ」などと囃したてられ、悔しい思いをしたことがある。
プロ野球を観に行きたいとねだると、間違いなくタイガースファンなんだから、甲子園に連れてってくれればいいのに、阪急電車に乗って京都方面に向かい、西京極球場で、ブレーブスの試合に連れてかれたことがあった。当時のブレーブスと云えば、西本監督の頃だ。福本、大橋、長池、加藤英、山田、足立。玄人好みの渋いチームだが、小学生に、そういう面白さは伝わらない。内野に、後にジャイアンツで通訳を務める、ボビー・マルカーノがいた。場内アナウンスで、「マルカーノ」というコールが流れると、外国人が日本の球団にいるだなんて、夢にも思わないオレは、「丸河野」という名前の選手がいるのだ、と思っていた。
とにかく、家族を愛しているのは間違いないんだろうが、それをストレートに出さない。そういう諧謔は、つまり照れなんだろうけど、子供は理解できない。結局、優しさや愛情を素直に受け止められず、父親は怖い人、というだけの存在になってしまった。
そんな父親がすっかり老け込み、痴呆まではいかないものの、母親に叱咤されている、そういう弱りぶりは寂しいものだ。軽く出かけられて、いい気晴らしになるものが、何かないだろうかと、考えていると、よくしたもので、週刊誌なんかに特集されている、「アニマル・セラピー」の記事が目にとまった。老人ホームの孤独な人々の癒しにもなったりして、犬や猫を飼うということは、なかなかによい効果のあるものらしい。そこで妹と相談し、ラブラドール・レトリーバーを飼うことにした。
タイスケと名づけられた仔犬は、始めはびくびくおどおどしていたが、家族がちやほやするものだから、だんだん増長してきた。オレは、怒るときには、横ッ面はたいて怒るので、「この人は怖い」と思わせることに成功したが、父親がいけない。いつもの照れで、ちゃんと「タイスケ」とは呼ばずに、「タイ公」という風にしか呼ばない。それはともかく、馬鹿ッ可愛がりの甘やかしっ放しなのだ。
散歩に連れ出そうとすると、タイスケは、狂ったように喜んで、飛び掛ってくる。30キロ近い犬が、助走をつけて飛び掛ってくるのだ。足腰が弱っている父親は、ひとたまりもない。ぺたんと尻餅をついてしまう。それでも、一切怒ろうともせず、「タイ公は、哲学的な顔をしとるなぁ」などと、ニコニコしている。色々、世話をしてくれたりして、アニマル・セラピーの目的は果たせているようにも思えるのだが、躾をしない甘やかせぶりは、些か心配でもある。犬は、序列をつける。誰か一人がしっかり躾ても、他が甘やかせば、なめてかかる。タイスケにとっては、我が家の序列は、オレ>タイスケ=母親>父親のようだ。困ったもんである。
とにもかくにも、タイスケがやってきてからは、我が家の生活は、「犬と暮らす」ことが大前提になっている。ラブラドール・レトリーバーながら、盲導犬にも介助犬にも、きっと向かないタイスケが、これからも我が家の中心を占めることになるんだろう。
ま、それはそれでいいけど。