犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

オイお前 届いてゐるか この声が

シサシブリに、長い日記を書きます。

20代の半ば、大学の同級生が立ち上げたアマチュア劇団に、役者として参加していたことがある。アマチュア劇団だから、立ち上げの段階では、気の合った仲間や、一緒にやりたいと思う連中に声をかけてスタートするのだが、継続的に人を受け入れて運営したい、と云う思いもあり、頻繁に、新人募集をしていた。ぴあやLマガジン、ぷがじゃと云ったイベント情報誌に葉書を送り、告知を載せてもらうのである。しかし、そう云う告知掲載希望の葉書は、各誌編集部に山ほど届く。一度載ると、次に載るまで数ヶ月インターバルが開くことはザラである。そこで、一計を案じ、数人の劇団員が、それぞれ違う劇団名、それぞれ違う連絡先で、募集告知を送る、と云う作戦を立てた。入り口を増やし、問い合わせがあったら「実は」と実態を打ち明ける、と云う作戦でる。目論見は中り、送った全員の募集告知が載った。オレの名前で載せた劇団名は、「Culture Art Theater」略称「CAT」 なんともこっ恥ずかしい名前である。

この作戦は、一定の効果を上げ、それぞれの募集に対して問い合わせが少ないながらもあった。しかし、コスいやり口はなかなか実を結ばない。入団まで漕ぎつけたケースは、結局なかった。
とまれ、意外な効果が現れたりもする。オレの元に、一通の公演通知が届いた。「劇団CAT御中」 送り主は、高槻在住らしい、アマチュア劇団の代表者で、女性だった。江坂の小さなホールで、自分の劇団の旗揚げ公演を打つので、招待券を贈ります、と云うことであった。同じ高槻在住の代表者のアマチュア劇団と云うことで、交流を図ってきたものらしい。
オレは勿論、健康な男子であるからして、下心満々で、いそいそと江坂に出掛けて行った。

その芝居の内容だが、呆れ果ててしまった。酷い、と云う言葉では足りぬ程、惨憺たるものだった。終演後、オレは何も云う気が起こらず、サッサと引き上げてしまった。アンケートだけには、冷静ながらかなりの悪意を込めて、クサす内容の感想を書いて。
その後、その劇団からの連絡が来なくなったのは、云うまでも無い。

とにかくヒドかった。ある重要なキャラクターが居るのだが、それを演じている男優は、棒立ちで棒読みで、心ここに在らずと云うような表情に終始し、やる気も全く感じられなかった。マネキンをそこに置いて、台詞をテープで流しているようなもの。未だしもマネキンを置いていた方が、感情の無い冷酷な象徴的キャラクターと云うような演出意図を感じさせることが出来るかもしれないのに、生身だけに始末に終えないものだった。オレはアンケートに、「彼が舞台に立っている意味が分からない。あれが意図した演技だと云うのなら、そう云う演技をしている彼も、そう云う演技を許した演出も、端的に云って間違っている」とはっきり書いた。書かずに居られなかったのだ。

細部への心配り、と云うものも感じられない、雑な創りの芝居でもあった。冒頭、儚げな少女が舞台上を彷徨っている。それに出逢う一人の青年。みすぼらしい格好をしている。どうやら画家の卵らしい。青年は少女に声をかけるが、少女はぼんやりとしている。記憶を失っているようだ。青年は、少女を、自分のアトリエ兼住まいのアパートに連れて行く。二人が去った後、舞台上に黒いスーツ姿の二人連れが現れる。どうやらこの二人は、先ほどの少女を追っているらしい。

翌朝。青年のアトリエで少女は目覚める。青年は、朝食を買いに行ってくると云って、部屋を出る。一人残った少女は、しばらく大人しくしていたが、やがてふらふらと、部屋を出て行ってしまう。空っぽの部屋に入ってきたのは、昨夜の黒スーツの二人連れ。少女を探しているのだろう、部屋中を物色する。立てかけてあるイーゼルやカンバスも乱雑に扱い、部屋を散々荒らして去って行く。
そこに青年が戻ってくる。少女は居ない。部屋も荒らされている。しばし呆然としたあと、部屋を片付け始める。と、呼び鈴がなる。出てみると、先ほどの黒スーツである。少女の行方について、青年に問い質すのだが、青年は何も知らない。すこし小競り合いが続き、と云う展開。

この、芝居のイントロダクションの部分は、非常に重要である。主人公の出逢いがあり、謎が提示され、必要なキャラクターが最低限に配置されている。これから何が起こるのか。観客の興味を喚起する創りでなければならない。
ピースの配置は問題ない、と思う。ここから先は演出の問題である。どんな装置転換をするのか、暗転を使うのか、照明をどう当てるか、BGMをどう選曲するか、何秒間、どのタイミングで、どう云う音量で流すのか、等々。
マチュア劇団だから、芝居の力はさほど期待出来ない。となれば、演出が頑張らねばならない。見せるものとしてどう作りこむのかは、演出の技術の問題になってくる。
正直云って、この演出が雑だった。例えば、朝食を買いに出掛けた青年が、戻ってきて、荒らされた部屋を見て呆然とするシーン。少女の姿も無い。少し落ち着こうと、青年は買ってきた朝食を置き、部屋を片付け始める。イーゼルを立て、カンバスを元に戻す。と、ここで呼び鈴が鳴る。これが、SEとして、テープで音出しされるのだが、ミキサーのレベルを上げすぎて(テープへの録音レベルの問題もあるのだろうが)、音の前にテープのノイズが入るのである。「シャーーーー、ピンポーン」と云う感じ。これはないだろう。テープですよー、と云うのが丸分かりじゃないか。これは、いくらでも解決法がある。呼び鈴をやめて、下手袖から壁を叩いて、ドアの音を模するとか。どうしても呼び鈴がいい、と云うのなら、BGMを流しておけばいい。何気ない朝のやりとりからシーンが始まるのだから、それなりのBGMを流しておく。BGMのレベルは、シーンの緊張感に応じてミキサーで操作し上下させる。呼び鈴を流す直前は、荒らされた部屋を片付けるシーンなのだから、BGMのレベルを上げ目にしておき、別のチャンネルで呼び鈴のテープを流し、タイミングを計ってミキサーを操作すればいい。テープのノイズを、これで消すことが出来るではないか。
マチュアレベルだから、云うのは云い訳にならない。オレもその時点でアマチュアだが、アマチュアのレベルでもこのくらいのことは考える。志の違い、と云うことなのかもしれない。

オレは、舞台演出と云うのは、技術の部分に負うところが大きい、と当時考えていた。アマチュア劇団ともなれば尚更で、役者は技術に未熟で、足りない部分をパッションで補おうとする。大きな声を出し、感情をぶつけるように演技をすれば、それなりに成立したりもする。
演出の仕事は、役者の演技を引き出すこともあるが、パッションでどうにかしようとする芝居については、それを巧みに調整する必要が出てくる。役者の感情を、例えば、具体的に、声のトーンを変えさせることで抑制したり、キャラクターの向き、出し入れを数学的に構成したり(敢えて観客に背を向けさせたりするのも一つの方法だったりする)もする。
そして、照明や音響の配置、選択、タイミングも、舞台を成立させるファクターになる。オレは、自分で演出をする場合には、暗転はほとんど使わなかった。真っ暗闇にしてその中で装置転換を図ったりするのは、一番安易な方法なのだ。その暗闇の中、観客の集中力は一挙に切れる。どうしても暗転せざるを得ない場合には、役者の配置にも細心の注意を払った。暗転前のシーンに登場している役者が、暗闇になった途端に袖に駆け込み、同時に大音量でBGMを流し(デペッシュ・モードとかかけたなぁ)、次のシーンの役者も即スタンバイ、長くても1秒程度のインターバルで、サスペンションライトをストンと落として、役者が浮かび上がる。やはり1秒程度、絵として見せたあと、BMGのレベルを落とし、役者が台詞を喋り出す。そんな風に、一瞬々々で切り替えを行って、観客の緊張感を切らない工夫を、常に考えていた。

長々と芝居について書いたが、要は、表現と云うものは、パッションよりも先ず技術、と云う思いを、今、改めて強くしているのである。ジャズを始めて3年数ヶ月、ジャムセッションに通いだして3年、去年はライブを3本、内リーダーライブを2本も打てたが、やっぱり技術が必要だ、と思い知らされている。

楽器演奏には、先ず、基本的に、その楽器を操る技術が要る。必要最低限、その楽器を使って、音の羅列を音楽にする技術、とでも云おうか。
次に、ソロ演奏でないのなら、他の楽器とのアンサンブルを考えねばならない。どう云う構成にするのか。どう云う楽器と一緒に演奏してみたいか。同じ楽器を2台以上入れるなら、兼ね合いをどうするのか。演奏者のレベルをどう考えるのか。他の演奏者とどうコミュニケートするのか。ある楽器のある音に対して、自分の楽器でどう反応すべきなのか。どう云うジャンルの音楽を演奏するのか、演奏したいのか。難易度をどう設定するか。考えることは様々ある。

エイヤ、と勢いで何とかする部分も無いではないが、やはり、準備段階で整えねばならないファクターは多い。“熱い思い”や“煌く衝動”“混沌”“宇宙の意思”“平和”“日常への優しい眼差し”。色々言葉を重ねなくとも、つまりは“自分のやりたいこと、伝えたいこと”を表現するするために、泥臭いステップを厭わず踏むこと。
パフォーマンスとは、そう云う責任を負わねばならないものなのだ、と今でも思っている。

一流のパフォーマーは、フリーに、好き勝手に音を出しているように思えても、細心の注意を払って、相手の音を聴いている。壊すにしても、先ずは確固たるイメージがあり、基本に裏打ちされた正確な技術があり、相互に関連し合う柔軟な感覚があり、そして妥協しない強烈な自己主張があり、それらがぶつかり合い組み合わさり、作品になっていく。「芸術」や「表現」と云う言葉に甘えない態度がそこにはある。芝居も音楽も、そのポイントで地続きなのだ。

こう云うことを書いても、些か虚しくもある。一番伝えたい相手は、幼稚なへそを曲げて、既に去っているからね。やれやれ。