犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

何気ない 二つ 偶然が クロスする

mixiはこちら → http://mixi.jp/view_diary.pl?id=991059820&owner_id=554922

何度か、同じような内容は書いているが、ここのところ、新しいマイミクさんもまた増えてきているので、改めて書いてみる。

ジャズギター嗜む(嗜む、ってないいな。オトナの趣味って感じぢゃないですか)ようになったのは、ほんの些細なきっかけであって、2年前の夏にあった全く別の2つの出来事が、偶然に重なり合った結果なのである。

ギター自体は、14歳、中坊の頃から弾いていた。ヤマハのフォークギターを手に入れて、アリスやらさだまさしやら松山千春やら、高校に上がってからはビートルズやらサイモン&ガーファンクルやらのコピーを、専ら部屋弾きでやっていた。

大学に入ってからは芝居を始めて、ギターは殆ど弾かなくなった。部室に持ち込んで、たまに遊びで弾く程度。この頃は、身訓し、発声練習し、台本を書き、演出し、舞台に立ち、大学を辞めてから、一応、IT企業に就職し、しかし芝居は続ける。同級生が作った小劇団に入って2公演ほど役者で参加、そこを辞めて自分の劇団を立ち上げ、旗揚げ公演を打ったところで東京へ転勤になり、劇団は自然消滅、これが28歳のとき。

東京勤務は4年で終わり、再び大阪に戻ってきたが、三十路の10年は、車やリフォームの借金もあったのでただ働いていた。2社ほど会社も変わり、40歳の声を聞く直前にフリーランスのSEに転身。フリーになって最初の仕事が、某大手家電メーカのシステム開発で、本番稼動直前には月間330時間と云うような怒涛の勤務もあったが、どうにか乗り越え、そして2006年7月を迎える。

mixiは2005年の春から始めていて、初めはマイミク数人程の規模で細々とやっていた。高槻市民のコミュニティに参加していたら、あるイベントの告知が立った。7月5日、高槻のジャズクラブ「A.Blakey」で、エブリン・ブレイキーのライブがある、と云うことで、怒涛のシステム開発に一段落着いて、息抜きしたいと思っていたオレは、生まれて初めて、ジャズのライブを聴きに行った。
このライブに出演していた人こそ、行本清喜、ユキさんその人であった。
この日以来、ユキさんとお知り合いになり、ライブに何度か足を運ぶようになって、マイミク登録して頂いたこと。これがまず一つ。

もう一つのきっかけは沖縄旅行であった。タイトなシステム開発を乗り越えて知り合ったメンバーと、男3人で、2006年8月、沖縄へ3泊4日の旅に出かけたのである。
那覇にホテルを取り、レンタカーを借りて、美ら海水族館に行ったり、北谷のアメリカンビレッジに行ったり、国際通りで飲んだくれたり、男3人、全く色気のない、しかし気の置けない楽しい旅だった。最終日の夜、国際通りをぶらぶらして、何気なく、オレは一軒のCD屋を覗いた。
そこは普通のCDショップだったが、三線も売っていた。数千円のカンカラ三線から、棹に黒檀をつかった10万を超えるようなものまであって、オレはどうしようもなく欲しくなってしまい、5万円の三線を買った。元々がギター小僧、弦楽器を見ると血が騒ぐのである。

帰宅してから、「安里屋ユンタ」や「涙そうそう」なんかを練習する内、弦楽器好きの血の騒ぎは治まりきらず、昔から憧れていたエピフォンのカジノと云うエレキギターまで買ってしまう。1966年、ビートルズの武道館公演で、ジョン・レノンジョージ・ハリスンが手にしていたギターである。
買ってしまったとなると、部屋弾きだけで済ませてしまうのはいかにももったいない。ちゃんと練習してちゃんと弾きたい。40歳を越えて、いいオヤジになっているんだから、ここはひとつ、ブルースギターなんか習ってみるのはどうだろう、昨今、若いお兄ちゃん達がストリートでギターかき鳴らして唄っているが、仕事帰りに一杯やって、ほろ酔い気分で、そんなストリートミュージシャンの前を通りかかったりした時に、「お兄ちゃん、やっとるねぇ。チョットおっちゃんにギター貸してみ」と云ってギターを借りて、軽くアドリブでブルース聴かせたりしてやって、「お兄ちゃん、ええギター使とる。若いうちは夢追いや。頑張れよ、応援するから」と云ってギター返してフラリと去っていく、なーんて出来たらカッコいいぢゃねーか!

などとバカなことを考えながら、ネットで、大阪でブルースギターを教えている教室を調べてみたら、三木楽器アメリカ村店がヒットした。早速メールを送り、電話がかかってきて、スタッフ嬢とやりとりをしてから、入会することに決めた。先生は、若いが引き出しも多く、教え方も丁寧な方だった(実を云うと、コージーさんと云って、今ではマイミクさんでもあるのだ)。
最初の数回はAのブルースの基本を教えてもらい、次に「C Jam Blues」が課題曲になり、ツーファイブフレーズなんかの習得が始まり、「ジョージア」をやり「A列車」をやり「ブルーボッサ」をやり・・・、と云う具合で、授業のメインはジャズギターになっていった。

この頃には、ユキさん主催のToDoジャムセッションにも通い出しており、2つの些細なきっかけが思いもよらずクロスした。四十の手習いで始めたジャズギターが、新しい生活の張りになっていく。ToDo以外のジャムセッションにも週末毎に通い、上は還暦目前、下は未成年、職種もミュージシャン、医師、経営者、公務員、教師、オレと同じIT関連、研究職、営業職、事務職、主婦、学生、無職w等々、様々な方々と音楽を通じてお知り合いになれている。

月並みな云い方だが、人生は些細なことから転がり出す。そして転機は自ら動き出さなければ決してやってこない。そう云うことを実感する、この2年間なのであった。

長々と書いたが、要は、次のセッションでご一緒する皆さん、今後とも宜しく、と云うことなのであります。


ブログはこちら → http://d.hatena.ne.jp/pearlrice/

何度か、同じような内容は書いているが、ここのところ、新しいマイミクさんもまた増えてきているので、改めて書いてみる。

ジャズギター嗜む(嗜む、ってないいな。オトナの趣味って感じぢゃないですか)ようになったのは、ほんの些細なきっかけであって、2年前の夏にあった全く別の2つの出来事が、偶然に重なり合った結果なのである。

ギター自体は、14歳、中坊の頃から弾いていた。ヤマハのフォークギターを手に入れて、アリスやらさだまさしやら松山千春やら、高校に上がってからはビートルズやらサイモン&ガーファンクルやらのコピーを、専ら部屋弾きでやっていた。

大学に入ってからは芝居を始めて、ギターは殆ど弾かなくなった。部室に持ち込んで、たまに遊びで弾く程度。この頃は、身訓し、発声練習し、台本を書き、演出し、舞台に立ち、大学を辞めてから、一応、IT企業に就職し、しかし芝居は続ける。同級生が作った小劇団に入って2公演ほど役者で参加、そこを辞めて自分の劇団を立ち上げ、旗揚げ公演を打ったところで東京へ転勤になり、劇団は自然消滅、これが28歳のとき。

東京勤務は4年で終わり、再び大阪に戻ってきたが、三十路の10年は、車やリフォームの借金もあったのでただ働いていた。2社ほど会社も変わり、40歳の声を聞く直前にフリーランスのSEに転身。フリーになって最初の仕事が、某大手家電メーカのシステム開発で、本番稼動直前には月間330時間と云うような怒涛の勤務もあったが、どうにか乗り越え、そして2006年7月を迎える。

mixiは2005年の春から始めていて、初めはマイミク数人程の規模で細々とやっていた。高槻市民のコミュニティに参加していたら、あるイベントの告知が立った。7月5日、高槻のジャズクラブ「A.Blakey」で、エブリン・ブレイキーのライブがある、と云うことで、怒涛のシステム開発に一段落着いて、息抜きしたいと思っていたオレは、生まれて初めて、ジャズのライブを聴きに行った。
このライブに出演していた人こそ、行本清喜、ユキさんその人であった。
この日以来、ユキさんとお知り合いになり、ライブに何度か足を運ぶようになって、マイミク登録して頂いたこと。これがまず一つ。

もう一つのきっかけは沖縄旅行であった。タイトなシステム開発を乗り越えて知り合ったメンバーと、男3人で、2006年8月、沖縄へ3泊4日の旅に出かけたのである。
那覇にホテルを取り、レンタカーを借りて、美ら海水族館に行ったり、北谷のアメリカンビレッジに行ったり、国際通りで飲んだくれたり、男3人、全く色気のない、しかし気の置けない楽しい旅だった。最終日の夜、国際通りをぶらぶらして、何気なく、オレは一軒のCD屋を覗いた。
そこは普通のCDショップだったが、三線も売っていた。数千円のカンカラ三線から、棹に黒檀をつかった10万を超えるようなものまであって、オレはどうしようもなく欲しくなってしまい、5万円の三線を買った。元々がギター小僧、弦楽器を見ると血が騒ぐのである。

帰宅してから、「安里屋ユンタ」や「涙そうそう」なんかを練習する内、弦楽器好きの血の騒ぎは治まりきらず、昔から憧れていたエピフォンのカジノと云うエレキギターまで買ってしまう。1966年、ビートルズの武道館公演で、ジョン・レノンジョージ・ハリスンが手にしていたギターである。
買ってしまったとなると、部屋弾きだけで済ませてしまうのはいかにももったいない。ちゃんと練習してちゃんと弾きたい。40歳を越えて、いいオヤジになっているんだから、ここはひとつ、ブルースギターなんか習ってみるのはどうだろう、昨今、若いお兄ちゃん達がストリートでギターかき鳴らして唄っているが、仕事帰りに一杯やって、ほろ酔い気分で、そんなストリートミュージシャンの前を通りかかったりした時に、「お兄ちゃん、やっとるねぇ。チョットおっちゃんにギター貸してみ」と云ってギターを借りて、軽くアドリブでブルース聴かせたりしてやって、「お兄ちゃん、ええギター使とる。若いうちは夢追いや。頑張れよ、応援するから」と云ってギター返してフラリと去っていく、なーんて出来たらカッコいいぢゃねーか!

などとバカなことを考えながら、ネットで、大阪でブルースギターを教えている教室を調べてみたら、三木楽器アメリカ村店がヒットした。早速メールを送り、電話がかかってきて、スタッフ嬢とやりとりをしてから、入会することに決めた。先生は、若いが引き出しも多く、教え方も丁寧な方だった(実を云うと、コージーさんと云って、今ではマイミクさんでもあるのだ)。
最初の数回はAのブルースの基本を教えてもらい、次に「C Jam Blues」が課題曲になり、ツーファイブフレーズなんかの習得が始まり、「ジョージア」をやり「A列車」をやり「ブルーボッサ」をやり・・・、と云う具合で、授業のメインはジャズギターになっていった。

この頃には、ユキさん主催のToDoジャムセッションにも通い出しており、2つの些細なきっかけが思いもよらずクロスした。四十の手習いで始めたジャズギターが、新しい生活の張りになっていく。ToDo以外のジャムセッションにも週末毎に通い、上は還暦目前、下は未成年、職種もミュージシャン、医師、経営者、公務員、教師、オレと同じIT関連、研究職、営業職、事務職、主婦、学生、無職w等々、様々な方々と音楽を通じてお知り合いになれている。

月並みな云い方だが、人生は些細なことから転がり出す。そして転機は自ら動き出さなければ決してやってこない。そう云うことを実感する、この2年間なのであった。

長々と書いたが、要は、次のセッションでご一緒する皆さん、今後とも宜しく、と云うことなのであります。