犬と暮らす人

2011年1月まで、ラブラドール・レトリーバー「タイスケ」と暮らしていた、表はフリーのシステムエンジニア、裏はなんちゃってジャズギター弾きの日常。

蝉の子や 駆け抜けやうと 夏の宵

夏休み明けということで、定時に、早々と帰宅。

風が気持ちいい。随分と涼しい。

途中の工事用フェンスに、セミの幼虫を見つけた。
これから羽化するところだろう。

ひと夏、ほんの数日、けたたましく鳴いて、やがて去っていく。

まだ、夏はこれからだ。

コソバユいタイトルですが。

1990年と云えば、社会人になって2年目だった。
5年行った大学を辞め、数ヶ月フリーターをやって、半ば偶然に、IT業界に飛び込んだ。当時は、ITなんて言葉は無かった。Windows95も無かった。
汎用機のオペレータをやりながら、COBOLのプラグラムを組み始めた。突っ走るように仕事をしていた。

たまに、大学に寄って、演劇部の後輩の練習を見に行った。きっと煙たい先輩と思われていただろう。
当時、ワンボックスのワゴン車を中古で手に入れていたので、公演の度に、後輩に呼ばれた。搬入の手伝いである。巧く利用されていたわけだが、結構楽しんでいた。

仕事を続けながら、小さな劇団に所属して、2回ほど舞台に立った。そこの座長と喧嘩して辞めて、半年ほど逼塞してから、後輩に声をかけ、自分の劇団を作った。

その頃、デビュウしていたのが、FLYING KIDSだった。

東京で、土曜の深夜、「イカすバンド天国」という番組をやっていることは、風のうわさで聞いていた。観たかったが、関西では、系列のMBSが、「板東英二のわがままミッドナイト」という情報番組を自主制作しており、「イカ天」はネットされなかった。
しかし、雑誌等で情報は入ってくる。初代グランドイカ天キングとなったFLYING KIDSというバンドがメジャーデビュウする、ということで、天満の駅前にあったレンタルCD屋で、そのアルバム「続いていくのかな」を見つけ、早速借りてみた。

 幸せであるように 心で祈ってる

 (「幸せであるように」)

ファンクのリズムが刻まれる中、平易な言葉が叩きつけるようなボーカルで飛び込んでくる。
カッコイイ。
ただ、そう思った。
当時、大ブレイクしていたTMネットワークや、出始めていたビーイング系の連中の音楽が好きになれなかったオレに、FLYING KIDSのファンクは、真っ直ぐ入り込んできた。

92年の春、自分の劇団で公演を打った。当然のように、芝居のラストの群唱のバックに流すBGMに、オレはFLYING KIDSを選んだ。

 新しい 新しい 新しい 月日を重ね
 新しい 新しい 新しい方々 志高く

 (「新しい方々」)

今から思うと、それが、オレの青春のクライマックスだった。翌93年春、オレは転勤を命ぜられ、東京に行った。劇団は、一回の公演を行ったのみで、自然消滅した。オレが4年間、東京で働いている間に、役者もスタッフも、それぞれ就職し結婚し、自分の家庭を持って、自分の青春にまとまりをつけた。

4年後、帰ってきたときには、オレ自身、「社会人」になっていた。
やがて、FLYING KIDSも、ファンクなバンドから、ポップなバンドになっていき、オレも聴かなくなる。98年に解散。巷には、コムロ氏の音楽が溢れていた。

解散してしまっても、活動後半の曲を聴いていなくても、オレは、「好きなバンドは?」と聞かれたら「FLYING KIDS!」と答える。
青春のある時期に、濃密に聴き続けた音楽は、FLYING KIDSだけだったから。

10年弱が過ぎ、オレは、青春ではないけれど、ギターを弾き始め、セッションに通い始めた。流れてくる音楽を耳にすることはあっても、自分から聴くものを探すことがなくなっていたオレが、積極的にジャズを聴きだしている。

そんな中、FLYING KIDSが再結成する、というニウスを聞いた。今年の8月に、北海道で行われるロックイベントにほぼオリジナルメンバーで出演すると云う。
心が弾んだ。さすがに、観にはいけないが。

同い年のボーカル、浜崎貴司不惑を越えたわけだ。無論、面識は無い。でも、エールを贈らずにはいられない。
頑張れよー。いちファンとして、片隅で応援してるからなー。

 幸せであるように 心で祈ってる